HeartBreakerU 11
薫の、小さい頃からの変若水の実験の記録を読んでからずっと、私はどうやったら薫がした辛い経験を償えるかって考えていた気がする。
薫は、お前からの償いなんていらないよって言いそうだけど。
でも私は何かしたかったの。
だからこれは償いなんかじゃなくて、順番だって思ってくれると嬉しい。
二十歳までは私が幸せな順番で、これからは薫が幸せになる順番。
きっと薫が転送された未来には、薫が投与された変若水の影響を消してくれる薬ができてると思う。
できていなかったとしても、薫を実験対象として利用しようとする組織はないから。
だから、薫は未来で普通に、幸せに暮らして欲しい。
薫は狂ってなんかないと思うよ。
多分、疲れて混乱してただけ。
だって薫の手は血でなんか汚れていないし、絵本の最後を忘れてたのは疲れてたからだけだと思う。
絵本の最後は、だから私が教えてあげるね。
薫はね、すやすや寝るあかちゃんだったから、神様から『優しい』をもらったんだよ。
『優しいお兄ちゃんになってね』って母様が言っていたのを思い出した。
私のことを憎んでいるのに、心配して組織に渡さないでくれた優しいお兄ちゃん。
もっと一緒にいて色々話したかったな。
あれから私の時間では半年が過ぎたけど、私は後悔していません。だから薫も悔やまないでね。
薫が未来で、健康で幸せに暮らして行くことを、過去からいつも祈っています』
壁も床も天井も全て白く広い部屋。
天井からの光が煌々と部屋の隅々まで照らしている。
そこで薫は、初めてのタイムトラベルの負荷で動けないまま床にうつ伏せになって、知らない男の声が読み上げているその手紙の内容を聞いていた。
口を開こうとしても言葉が出ずに、薫は唇を噛み締める。
その声は続けて読み上げていた。
『沖田さん、本当にごめんなさい。
二人で一緒に幸せに暮らそうって言っていたのに、沖田さん一人で未来に行かせてしまって、ごめんなさい。
私のせいで薫に撃たれてしまってごめんなさい。
私のために未来へ行こうって言ってくれたのに、薫を連れて行かせてしまってごめんなさい。
出会ってから沖田さんには謝らないといけないことばかりしてきたのに最後もこれで、沖田さんの怒ってる顔が目に浮かびます。
でも私は沖田さんに死んで欲しくなかったんです。
狂ったりして欲しくなかった。
たとえ離れ離れになっても、未来で沖田さんが健康で暮らしてくれているのなら、私はそれで幸せです。
それに、私も諦めるつもりはないんです。
二十年後ですよね?
私は四十歳ですけど、がんばって生き抜いて沖田さんに会うつもりです。
沖田さんは、年をとってしまった私に会いたくないかもしれないけど……でもそれでもいいです。
元気な沖田さんと同じ時代で同じ空気をすって生きられるだけで、私は幸せなんです。
だから、ちゃんと薫に撃たれた怪我の治療と、タイムトラベルの負荷の治療、そして羅刹の治療をして元気になってください。
そして私を待っててくださいね。
未来で会えることを祈りながら、過去を頑張って生きていきます』
ガランとした部屋に響く土方の声を聞きながら、沖田は重い腕をあげて手で目をおおった。
目を閉じていても光が眩しくて弱った体を痛めつける。
目尻から熱いものがこぼれこめかみを伝っていくのを沖田は感じていた。
それでも君はいないじゃないか……
先ほどちらっと見えた部屋の様子。
明るい白熱灯の下、見たことのある部屋の中には、土方を始め近藤、斎藤、平助、左之、新八が立っているのが見えた。
千鶴の姿はなかった。
彼女がいてくれるのなら、たとえ何歳になっていても良かったのに。
ガサッという紙を折る音のあと、土方の声が再び部屋に響いた。
「……この手紙は山荘のあのレンガの奥に入っていた。お前が過去に行ってからの出来事、薫に銀の弾で撃たれていること、銀の弾が羅刹に与える影響からお前の血の発作とタイムマシンの負荷の症状まで、全部書いてくれてあった」
土方たちは沈痛な面持ちで、床に血まみれで横たわっている沖田と、彼の隣りで動けけない様子で這いつくばっている薫を見ていた。
「……あの子はどうなったんですか」
しぼりだすような沖田の声。
土方は一瞬迷ったもののの、正直に答えた。
「お前たちが未来に転送されてから一年後、あの山荘の途中の崖から車ごと海へ落ちた。ブレーキ痕からは、かなりのスピードが出ていてカーブを曲がりきれなかったことがわかってる。目撃証言では、山荘に向かった千鶴のあとに不審な黒いスーツ姿の外人が、千鶴の行方を聞いて後を追って行ったらしい」
土方はそこで視線をそらせて、言いにくそうに続けた。
「……車は引き上げられたが、遺体は見つからなかったそうだ」
「………」
一人で逃げきれるわけないのに。
僕は羅刹になっても君と一緒にいたいって言ったのに。
君がいない世界で僕が幸せになれるわけないことなんて、君はわかっていたはずなのに。
体内から血がどんどん流れていくのを感じる。
うつろになった心と同様に、身体からもどんどん熱が奪われて、足や手が冷たい。
だが沖田はもう何も感じなかった。
千鶴のいないこの世界で、命を維持していく意味もない。
「総司が危険な状態なのは千鶴の手紙でわかっている。手術の用意ができているから、まずは銀の弾の摘出からだ。運ぶぞ」
土方がそう言って指を鳴らすと、沖田の横に斎藤と新八がストレッチャーを置いた。
「ちょっと痛いかもしれねーが、頑張れよ」
「新八、俺が脚を持つ。いいか、いくぞ」
沖田がストレッチャーに乗せられると、土方は今度はとなりでうつ伏せになっている薫を見た。
タイムトラベルの負荷でしばらくは動けなはずなのに、薫は驚異的な力で、膝をついて起き上がろうとしていた。
床についた拳が細かく震え、額からは汗がしたたっている。
土方は眉間にしわを寄せた。
「おい、お前。……薫とやら。無理するな。せっかく千鶴が救った命だ。変若水の影響をチャラにする薬は、沖田から送ってもらった千鶴の血からある程度完成してるし、血の発作に対する対処療法も確立してきている。妹の望み通り、人間になって健康に生きていけるよう努力するんだな」
平助が薫のそばに行き、同じく治療室に運ぼうと手を伸ばしたが、薫はそれを払った。
「……触るな」
土方の眉間のシワが深くなる。
「おい、お前、いいかげんに――」
「治療はいらない」
薫はギラリと黒い瞳を光らせて、睨むように土方を見た。部屋にいた人間が皆驚いたように薫を見る。
ストレッチャーの上で起き上がろうとした沖田を、斎藤が止めた。
「総司、動くな!」
沖田は斎藤の静止に構わず、半身を持ち上げ薫に吐き捨てるように告げた。
「羅刹だろうとなかろうとなんでもいいよ。僕が動けるようになったら一番に殺してやる」
「総司!」
近藤が諌めたが、沖田は訂正はしなかった。土方がイライラしたように薫に言う。
「意地を張るのもいい加減にしろ! お前の妹は自分の代わりにお前を助けたくてお前をここに送り込んだんだろう? お前がそれに応えないでどうする」
薫は鋭い視線で土方を見た。
「関係ない。俺は俺の思うことをするよ」
「お前――!」部屋中の男たちが薫の言葉に色めき立つ中で、薫はめまいがするのか頭を手で押さえて、部屋の中を見渡した。そして床に転がっている、黒い小さな四角いもの――タイムマシンを見つけた。
「……あれを直す。それには俺のこの頭が必要だ」
「……」
薫が何を言い出したのかわからない。そんな表情の皆を代表して、近藤が聞いた。
「薫くん、タイムマシンはもう使えん。君もわかってるだろう? 今はもう羅刹はこの時代にはいないし、あのタイムマシンを作った技術は総司が時間の流れを変えてくれたおかげで失われてしまったんだ」
「でも、物はある。環境と時間があれば俺なら直せる。このタイムマシンの設計者で羅刹の頭脳を持った俺なら」
薫の言っていることを一番最初に理解したのは沖田だった。緑の瞳の色が濃くなり、金色のきらめきが光る。
「……できるの?」
沖田の質問に、薫は沖田の顔も見ずに答えた。
「やる」
薫の言葉を聞いて、沖田は気力が途切れたようにストレッチャーに再びドサリと横たわった。
「総司! 大丈夫か?」
斎藤に頷きながら、沖田は薫に言った。
「じゃあ君を殺すのはタイムマシンを直して千鶴ちゃんを未来に連れ帰った後にしてあげるよ。過去には僕が行く」
ようやく話の流れを理解した左之が慌てたように言った。
「タイムマシンを直すのか? そんでもう一回過去に行って千鶴をここに連れてくるのか? そんなことできるのか? ってかタイムトラベルは二回やると死んじまうんじゃねえのか」
薫が答える。
「タイムトラベルに負荷がかかる理由はわかってるよ。シールドが弱すぎるんだ。原因もわかってる。タイムトラベル用のパワー源とシールド用のパワー源を同じにしているからだ。ウランペレットのせいで壊れた内部を修理して、並行して高出力の原子力電池を作る。そしてシールド用とタイムトラベル用のパワー源を分割する。必要なものを用意してくれ。研究室も必要だ。それから……」
薫はそう言ってよろよろと立ち上がろうとしたが、膝の力が抜けて転びそうになった。そこを平助が駆け寄って支える。
「わかったからさ、とりあえず今は治療しようぜ。俺たちも協力するから、まずは……」
土方たちも頷いた。
「そうだな。未来は平和になったのに、変えてくれた救世主の『血のマリア』は救えませんでした、じゃあ片手落ちだ。彼女を救えるのなら俺たちも全面的に協力するさ。でもまずは二人とも治療からだな。死んじまったら千鶴を救うもなにも元も子もねえだろう」
「そうだな、トシの言うとおりだ。総司は特にすぐに手術だ。薫くん、君も治療室が用意してあるからそこへ行こう」
近藤がそう言うと、薫は無言のまま近藤を見て、そして意識を失った。
「あれ? 昨日もここに来たお姉さん」
山荘のふもとのコンビニ……というには前近代的な『田舎の食料品店』の店主が、千鶴を見てそう言った。
山の天気は変わりやすく、朝は気持ちよく晴れていたのに正午近い今はどんよりと曇って今にも雨が降りそうだ。
「えーと……はい、昨日も水と果物を買わせてもらいました。今日はちょっと買い忘れたものがあって……」
千鶴がそう言って醤油と塩をカウンターに差し出すと、店主はそれをレジ打ちしながら世間話を続ける。
「今朝、お姉さんを知らないかって男たちが来たんだよ、会えたかい?」
「……男たち?」
「お姉さんの職場の上司だって。忘れた資料を届けに行きたいんだけどって言ってたけど………」
千鶴は仕事などしていない。よって職場もないし上司もいない。
「その人たち……スーツ着てました?」
「あ? ああ。それで外人みたいな人もいたね。お姉さん国際的な仕事をしてるんだねえ〜。はい、おまちど!」
渡されたビニール袋を持ってお礼を言いながら、千鶴は頭の中では忙しく考えていた。その男たちは、ほぼ間違いなく追手――薫がもといた組織だろう。
この一年の逃亡劇のおかげである程度神経が太くなったと我ながら思う。前なら恐怖のあまり立ちすくみ、どうしたらいいかとオロオロしていたに違いない。
沖田の持ち物から銃や武器を見つけて、自分でも扱えるよう練習したし、沖田が出入りしていたあの怪しい店ともこっそり連絡をとって必要なものを融通してもらったりした。
さすがに沖田のようにコンピューターやインターネットを駆使して情報を集めることはできないが、今のところなんとか逃げ切ってきてようやく一年だ。
日本の中を逃げ回るのはもちろん、沖田が作ってくれたパスポートを使って、身を隠すために海外にも行った。
それでも千鶴は、定期的に以前沖田と来ていた山荘を訪れることにしていた。
沖田が言っていたように、未来でもしかしてタイムトラベルの技術が復活して、過去の千鶴と連絡を取りたいような事態が発生したとしたら。
そうしたらこの山荘のレンガの奥のあの穴が使われるかもしれない。
まるでもう会うことのできない恋人からの連絡を待っているかのように、千鶴は時々ここを訪れてしまうのだ。
レンガの奥に、自分が以前いれた未来の沖田たちへの手紙以外何も入っていないと、ホッとして、少し寂しくなって、そして安心する。
この山荘は沖田との思い出も詰まっているし、組織にはばれていないので、千鶴にとっては時々訪れては懐かしむ故郷のようになっていた。
しかし、ここにも組織の手は伸びてしまったようだ。
千鶴はブルーのレンタカーに乗ると、車のエンジンをかけた。
もう山荘には戻れない。荷物のほとんどは山荘に置きっぱなしだが、大事なものはいつも肌身離さず持っている。このままさらに北に行くか南に行くか……どちらにしても山を降りて電車に乗り換えた方が安全だろう。最寄りの鉄道の駅は、ここからもう一山越えなくてはいけないが。
駐車場に停めた車の中で、千鶴がナビを確認しているとふいに運転席の窓をコンコンと叩く音がした。
店主かと思い千鶴が顔をあげると、覗き込むようにしている男が見えた。
少し長めの茶色の髪に涼しげな緑の眼差し、すっきりと通った鼻筋、冷たそうな唇が甘い顔を引き立てている。
黒のタートルに深い緑のナイロンコート。
「……」
夢なのか現実なのか。
驚いて目を見開いたまま千鶴が固まっていると、その人は車のドアを開けるようにと、運転席の取っ手を外からガチャガチャと動かす。
「ああ……は、はい」
千鶴はなにがなんだかわからないまま、ドアロックを外してドアを開けた。
「運転代わるから降りてくれる?」
彼の第一声はそれだった。
会えなくなった一年間、千鶴は何度も何度もこの声を思い出していた。つややかでどこか笑みを含んだような……千鶴の大好きな声。
「……沖田さん……」
これは夢? それとも幻覚?
呆然としている千鶴を、沖田は急かした。
「ほら、早く降りて。……ああ、降りなくていいから助手席に移動してくれる?」
手で追いやるような仕草をされて、千鶴は助手席に移った。空いた運転席に沖田は座り、シートの調整をしてギアやハンドブレーキの位置を確かめると、千鶴の方を向いた。
「……久しぶり」
柔らかく弧を描いた沖田の唇。きらめく緑の瞳は今、少しまぶしげに細められている。余裕のある表情とは裏腹に、沖田は食い入るように目の前の千鶴を見つめていた。
千鶴も同じだ。
「沖田さん……ほ、本物ですか……?」
感情が高ぶって声が震える。沖田も、何かをごまかすように目を何度か瞬かせたあとに、ニッコリと微笑んだ。
「本物だよ。……君には恨み言がたっっっくさんあるし、感動の再会もしたいけど、今は時間がないんだ」
沖田はそう言うとハンドブレーキを外して車を発進させた。
「え? あの、え? どこに行くんですか?沖田さんはどうしてここに……未来から来たんでしょうか?」
沖田はぐんぐん車のスピードを上げながら運転していた。ナビも見ずにハンドルを切って曲がり道を曲がっているところから、どこか目的があるのがわかる。
「そう。もちろん未来から来たんだよ、コレでね」
沖田はそう言うと、緑の薄手のコートから黒い四角いものを取り出した。千鶴も何度か見たことがある。
「タイムマシン!?」
「そう。君と……涙の別れをしてから君の方は一年たってて、僕の方は二年経ってるんだ。君の優秀なお兄さんが可愛い妹を救うために自分の命を削ってたった一つのタイムマシンを直してくれたってわけ」
「薫が? い、命を削ってって……薫は、まさか……」
青ざめる千鶴をチラッと見て、沖田は肩をすくめた。
「元気だよ。残念ながらね。……まあ、タイムマシンを直せるギリギリまで羅刹を人間に戻す薬を摂取しようとしなかったけど、僕が見た限りでは会ったときと変わっているようには見えないね。僕が過去にタイムトラベルをしたあと、土方さん達に無理やり薬を投与されて、今頃は未来では治療の真っ最中なんじゃないかな」
「薫が……」
未来に行った薫が羅刹の頭脳でタイムマシンを直し、そして沖田がここにいる――
千鶴はようやく事態がおおまかに理解できた。
「あの、それで今私たちはどこに……」
千鶴がそう聞くと、沖田は目線でバックミラーをさした。「見てごらん」
千鶴がバックミラーを覗くと、白いなんの特徴もないワゴン車が猛スピードで千鶴たちの車の後を追いかけてくるのが見えた。
「あれは……!」
千鶴を追ってきている組織の車に違いない。
「お、沖田さん、私、追われていて……」
「わかってるよ。だから僕は毎度のことながら自分の運命に従って君を助けにきたんだ。僕の膝の上に座ってくれる?」
「助けにって……え? 膝の上?」
千鶴は、車の後ろに見える白い車を見て、沖田の顔を見る。最後の言葉の意味がわからない。
「僕は運転中だから、君が動いてくれないと僕の膝の上には乗れないでしょう?」
そんなこともわからないの? と言いたげな沖田の言葉に、千鶴は目をまたたいた。
「はあ、それはもちろんそうですけど……膝の上ですか?沖田さんの? わ、私がのるんですか? 今?」
「そうだよ。早くして」
いらいらとそういう沖田に、千鶴はわけがわからないままにハンドルに手をかけている沖田の腕の下をくぐり、沖田の膝の上へと横向きに座る。前が見えなくなっては大変だから頭は下げて。ところが即座に沖田からのダメ出しが出た。
「そういうふうじゃなくて、またがるんだよ」
「ま、またがる?」
「足を開いて僕の腰を挟むように」
「……」
千鶴は膝丈スカート姿の自分を見下ろした。「でもスカートなんで……」
「そんなのを恥ずかしがるような仲じゃないよね、僕たち? 二人の命がかかってるんだから早く! できるだけ密着しないと一緒に跳べないんだよ」
沖田はそう言うとハンドルを右に切って緩やかなカーブを曲がった。ここから先はカーブ道が続くのを千鶴知っていた。
「沖田さん、スピードが……」
「こうでもないと追いつかれちゃうよ。海が見える崖のカーブまでは捕まるわけには行かないんだ」
「海の見える崖?」
千鶴がおずおずと足を開いて沖田と向き合う形で彼の膝の上に座った。
「そう……ああ……千鶴ちゃん……」
全身で感じる千鶴の感触とやわらかさ、匂い、温かさに沖田は体の奥底から震えるのを感じた。二年の間、夢にまで見た感触。自分の体調不良や薫の研究がうまくいかなかったとき、もうこの暖かさを二度と味わえないのではないかと怯えた。
でも今はそれに浸っている時間はない。
「……未来に帰ってから、君をゆっくり味わわせてもらうとして。今はしっかり僕につかまってて」
「未来に……未来に跳ぶんですか!? 今から?」
「そう、実際の歴史に出来るだけ忠実にするために、この車ごと崖のガードレールを突き破る。それと同時にタイムマシンで未来へと跳ぶ」
沖田はそういうと、ちらりと後ろの白い車を確認してから、さらにアクセルを踏み込んだ。エンジンの回転数が上がる。同時にタイムマシンの起動スイッチを押した。
「シールドのパワーを最大限に活かすためには、対象物は一つに近ければ近いほうがいいんだって君の兄さんが言ってたんだ。だからほら、僕の首に腕を回して。そう、ぴったりね」
心なしか楽しそうな沖田の口調に、千鶴は彼のセリフを内心怪しみながらも身体を沖田に沿わせるように押し付けた。筋肉質の広い肩。沖田の匂い。
千鶴はそんな時ではないのに頬が赤くなるのを感じる。
久しぶりすぎて、お互いに妙に新鮮で妙に恥ずかしい。
二人を包む青い光がだんだんと白く眩しくなっていく。
「……ちょっと痩せた?」
からかうようにそう聞く沖田の声も、少し照れくさそうだ。
最後のカーブを曲がると、沖田の前にひらけた崖とはるか向こうに太陽に輝く海が見えた。激しく車内に響くタイヤとアスファルトとの摩擦音に負けないように、沖田が大きな声を出す。
「見えてきた。千鶴ちゃん、ガードレールに突っ込むから僕にしっかり掴まって!」
沖田はそう言うと、片手をハンドルから離して千鶴をしっかりと抱きしめた。青白い光が濃く、強くなりタイムマシンが空気を震わす振動が、車のエンジン音より大きくなった。
千鶴はぎゅっと目をつぶると、沖田の胸に顔を押し付ける。沖田の両腕が自分の体に回されるのを感じたのと同時に、千鶴の視野は目を閉じていたにもかかわらず真っ白に染まった。
三百六十度ホワイトアウトした世界の中で、千鶴は必死に腕の中のぬくもりにしがみつく。
もう自分がどこにいるのかわからない。
いつの時代にいるのかも。
でも守るように固く抱きしめてくれているこの腕だけはわかる。体が、皮膚が、感覚が、千鶴の全てが覚えている。
時間の流れがどれだけ変わっても、幾度過去を繰り返しても、幾度未来へ戻って行っても。
このぬくもりを、今度は決して離さない。